弘法大師

弘法大師は、嵯峨・惇和・諸天皇の三代にわたる天皇家からの依頼で国家安泰の修法を勤めました。
 しかし、その一方で、諸国を巡って人々の苦悩を解決し、有名な満濃池を修築し、文化の恩恵を受けない大衆のために、綜芸種智院を開かれ、民衆教化を進められた。それは、貴族やお金持ちの子弟だけが学ぶところではなく、文化の恩恵を受けることができなかった大衆の教化に努めたのでした。
 しかも、大師は都に留まることを望まず、やがて人里を遠く離れた高野山に移り、真言密教をそこで大成されました。
(紀伊国伊都郡高野の峰にして入定の処を請け乞うの表)
(前略)「空海、少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日にして、更に西に向かって去ること両日程、平原の幽地あり。名づけて高野という。計るに、紀伊国伊都郡の南に当る。四面高嶺にして人蹤蹊絶えたり。今、思わく、上は国家のおんためにして、

 弘法大師の生涯

 弘法大師は、宝亀五年 (七七四)年六月十五日、讃岐の国の屏風ケ浦に生まれ、幼名を真魚 (まお)と言われました。
 父の名を佐伯直田公 (あたいたぎみ)と言い、佐伯氏はこの地を治めた豪族でした。母親の玉依 (たまより)は阿刀氏の出であり、叔父の阿刀大足は桓武天皇の皇子伊予親王の儒学の侍講(師)でした。大師は佐伯一族の期待を一身に受け、非常に高い教育を受けていました。


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